映画「バードマン」愛と傲慢を描いた秀作を徹底解剖・解説・ネタバレ~「ジョーカー」との繋がりまで
今回は2014年アカデミー賞作品賞含む4部門受賞した
「バードマン あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡」
を、作中に登場する小説を基に真面目に考察してみる。
だいぶがっつりで長いゾ。
(最後、ジョーカー との関連も)
(がっつりネタバレでいきます!)
初めに
レイモンドカーヴァー著
「愛について語るときに我々が語ること 」
は17つの独立した短編小説である。
その中の表題作である「愛について語るときに我々が語ること」では、四人の男女が"愛"について真剣に議論し合うという会話劇として展開されている。
屈曲した愛を語るもの、失われたもの、常識で測れないもの、憎しみに転じてしまったもの、そんな調子だ。
そして愛を互いの物差しで測りあう最中、こうも言う。
「僕らはみんな愛の"初心者"のように見える。...略」
この"初心者"という点はバードマン主人公のキャラクターおよびサブタイトルに大変重要である。ここからは小説と映画の関係性を主に紐解いていきたい。
https://www.amazon.co.jp/愛について語るときに我々の語ること-村上春樹翻訳ライブラリー-レイモンド-カーヴァー/dp/4124034997
彼の探す物
ところで、バードマンの主人公リーガンは、
元スター俳優でありながら現在は落ちぶれ、結婚生活も破綻、一人娘(#エマストーン )の信頼も失っている。
再起を目指す彼は自ら主演と演出を手掛け、ブロードウェイの舞台に挑戦する。
というのがおおよそのあらすじだ。
そしてこの舞台の題目こそがこの小説、
「愛について語るときに我々が語ること」である。
ここで、彼は二つの点においてのビギナーである。
"愛"と"舞台"
・彼にとって愛は失われたもので感触が無くなっている。(実際のところこの男はエゴが強く本当の愛について何も理解しようとしてない。)
・また、舞台に関して彼は全くの素人である。
("何故、元映画スターがやったともない舞台にこだわるのか"
に関しても重要で、彼のバックグラウンドがこの小説に出てくるエドという男に酷似している点と、著者のレイモンドカーヴァーに個人的な思い入れがあるからだと推測される。実際に高校の演劇を観た本人にメッセージからメッセージを受け取ったと言っている。
要するに彼にとってはやるしかない、何が何でも成功させたい舞台なのだ。)
無知がもたらす予期せぬ奇跡とは
彼は最初、舞台を成功させることで再び世間からの賞賛と注目を浴びたい、という承認欲求を満たすための名声(この時点の彼にとって名声=愛)を得たがった。
(と同時に娘との溝を埋めたいという思いも)
彼はエゴが強いことが時より現れるバードマンの具現化により表されている。
しかし普通に考えてそんなに上手くいくわけもなく、共演者の#エドワードノートン 演じる中堅俳優に演技を食われたりプライドを損ねられたりと空回りしてしまう。
更に彼のエゴに失望している娘からも
「誰もあなたに注目なんてしてない、もっと世の中を観て」
とまで言われる始末。
そして不足の事態に見舞われたり批評家からの評価も散々な状態で本公演を迎える。
そこで決死のリーガンは体当たりで捨て身の演技をしてみせるのだ。
生まれ変わろうと。
終いには実弾で自身の鼻を吹き飛ばす。
幻滅させ続けた過去との決別と言わんばかりに(このシーンも小説内の1シーンに類似する)。
彼のこの演技が深く認められ、批評家からはサブタイトルにもなっている
「無知がもたらす予期せぬ奇跡」と評された。
(批評家としての意味は舞台も演技も初心者である彼が起こした風前の灯だという皮肉的ニュアンス)
彼は後日目覚めた病室で、ぐるぐる巻かれた包帯の隙間からお見舞いに来た娘を確認する。そこには娘と父の本来の姿があった。
ここで、
この小説の中で唯一最もらしい愛が描かれている話があるので紹介する。
それは交通事故にあった老夫婦の話で、男は重症でベッドに横たわり、隣にいる愛する妻を見ることすら出来ないことに嘆き悲しむのだ。自身の怪我を意に介さず想うところに存在する無償の愛。
彼らと似た状況のリーガンだが、彼は男と違って自分の目で、愛を確認することができたのだ。なんて恵まれた奴なのだろう。
リーガンは当初の望み通りに世間からの承認欲求的なエゴ性の愛に触れられた他に、
一人の男として、一人の人間として誇りを取り戻し、
更には娘との真の愛情まで勝ち取った。
舞台と愛の無知(初心者)が、舞台で奮闘し愛を勝ち取ったこと、このことこそが"無知がもたらす予期せぬ奇跡"なのだ。
ラストの解釈:愛と傲慢
そしてあのラストに繋がっていくのだが、同時に両作のテーマにおけるゴール「出口」についても言及したい。
小説の"解題部"で綴られている村上春樹 氏の
「彼らは誰もが真剣に愛と救済を求めている。渇望し、希求している。
運命がどれほど熾烈なものであれ、彼らはなんとかそこに出口を見出そうと努めている。
そしてそのドアが愛という記号を通してしか開かないことを彼らは感じている。」
における出口と同意義の出口をバードマンのリーガンも求めていたのではないだろうか。
娘からの愛、身近な愛ほど得るのは案外難しい。
だからより簡単なものから手に入れられないかと希求していく。世間からの名声、更には一番ハードルの低い自己愛、エゴ。
ここでの自己愛は本当の意味で自分を愛するというエルトンジョン 的な意味ではなく、
愛への渇望から生じる自慰的なものであることは推測し易い。
先程にも記した通り、リーガンは予期せぬ奇跡として自身の誇りと娘との信頼、即ち愛を勝ち取ったリーガンは文字通り渇望と希求の末、出口を見出す事が出来た。
そして最後、探し求めた出口と言わんばかりに、窓から○○するのである。
ここで、ラストに二つの解釈が存在すると私は考えている。
・まず一つ目の、「愛を得たバードマンが窓から飛翔するラスト」は容易に想像がつく。
・そして二つ目は「愛を"得ること"だけに夢中だったバードマンのエゴが満たされ、その罪により窓から死するラスト」。
私は前者を信じるが後者を推している。
彼は愛されることを求めていたが、こちら側から能動的に愛することを行わなかったように思える。
冒頭で映るレイモンドカーヴァーの詩における
「この人生で望みを果たせたか?
-果たせた。
君は何を望んだ?
-愛される者と呼ばれ、愛されてると感じること」
にも通ずるように、彼の愛に対する傲慢さが目に余る。
また、ラストで空から火の玉が落ちるシーンはギリシャ神話における「イカロス」の隠喩である。
その話では人間の傲慢さについて触れているらしい。
愛によるハッピーエンドか
愛によるブラックコメディか。
いずれにしても滅茶滅茶深く鋭利で面白い映画だな。
悲劇か喜劇か
最後に、
この映画はほぼノーカットの長回しで撮影されている。何故なら人生に途切れは存在せず、カットして編集できないのが人生だから。
そして、その瞬間は落下していてもストーリー全体を通して観るとエネルギーに溢れた物語に昇華されている。
そこについて、撮影インタビューで語った監督の言葉が
「Comedy comes from stretching the tragedy.
-喜劇は悲劇を引き延ばすことで得られるもの。」
最近聞いたセリフだ。
リーガンの末路も主観では喜劇。